「三省堂国語辞典」(三国)の8版が17日、発売された。新語・俗語の収録に定評があり、その筋では何を新たに掲載するのか「広辞苑」よりも注目される三国。しかし今回の改訂は新語を増やすだけでなく、辞書の役割そのものを問い直すことになったようだ。編集委員の飯間浩明さん、三省堂辞書出版部の奥川健太郎さん、荻野真友子さんに話を伺った。
ライバルはグーグル――お役立ち情報
――8版で最もアピールしたいところを教えてください。
飯間さん 携わる人によって違うかもしれませんが、一番は、ネット検索では分からない内容をたくさん入れたところです。三国のライバルはネット検索、グーグルなどだと思っています。8版では「お役立ち情報」を多くしました。たとえば「汚名挽回」。誤りとされることが多いけれど、「元気回復」と「疲労回復」の両方があるのと同じで、「汚名挽回」も「名誉挽回」と同じ意味になり必ずしもおかしくない。そういうことを書いて、皆さんの疑問に答えられるようにしました。
――「お役立ち情報」には、飯間さんがよくネットでも書いているような語源の説明が含まれると思いますが、こういった問題は一つ一つ調べるのが難しく、大変ではないでしょうか。
飯間さん 大変ですが、信頼できる論文があることは分かっています。たとえば相撲の「はっけよい」の語源について、よくちまたで書かれる「八卦(はっけ)良い」というのは間違いです。学界で認められた論文(岡崎正継「『ハッケヨイ』の語源について」1972年)があり、「はや、きおえ(早く競いなさい)」が語源だというのがほぼ固まっています。こうした一般には知られていないことを伝えるようにしました。妥当かどうかの判断は難しいですが、それをやるのが辞書の仕事。時間と能力の許す限り検証しました。
飯間さん ネットで検索する人々はどういうところに悩んでいるのかなと考えたわけです。この言葉の使い分けは正しいのか、いつごろから使われているのか、間違いと言われているけれど本当に使ってはいけないのか、そういう「もやもや」に応える辞書になりたい。ネット検索で答えが見つからない人に、三国を見た方が早いですよと言えるようになりたいですね。今までの辞書は説明不足だったということを強く感じているので、情報を増やす方針に変えたということです。
「マリトッツォ」は生き残る――新規追加語
――三国といえば新語の追加ですが、飯間さんが新しく採集して追加したものを教えてください。
飯間さん パッと思いつくのは「マリトッツォ」。新しすぎるということで他の人が提案しなかったと思いますが、スイーツはブームが起これば必ず固定ファンができて、ブームが去った後もメニューとしては残るだろうと考えました。
飯間さん 校了近くになっていろいろ「これ入れていいですか?」と奥川さんと交渉した言葉もありました。
――たとえばどんな言葉でしょう。
奥川さん 「インクルーシブ」(包括的)は飯間先生からですね。
飯間さん そうですね、大事な概念だと思いまして。
――新聞でも出てくるようになりました。
飯間さん 「インクルーシブな視点/教育」というようにいろいろ使われるので、これがなければ三国にインクルーシブな視点があるかどうか疑われる!ということでお願いしました。
奥川さん 「スクリーンショット」はあったのですが「スクショ」がなくて、飯間先生から提案がありました。
飯間さん 「犬笛」もですね。「犬笛を吹く」といえば、SNSでそれとなく合図して人々を扇動するという意味で使われるようになりました。他には「それだったら」という接続詞を提案しました。こういった接続詞が、よく使うのに辞書に載っていない。「それ・だったら」と分かれるために一つの接続詞として意識されにくいが、やはり接続詞でしょう。「それはそれとして」というのも接続詞として提案しました。
--新型コロナウイルス関連語はどうでしょう。
飯間さん 辞書のあり方として、2、3年で消えてしまうような言葉はなるべく載せないのが基本だと思います。しかしコロナは先が読めず困りました。たとえば「ソーシャルディスタンス」は載せなくていいかなとも思いましたが、辞書が出るのが今年の12月で、利用者がまず引くのはコロナ語であろうと容易に推測されます。その特殊な状況を反映する言葉をある程度入れなければ利用者をがっかりさせる、最小限は入れようという判断は働きました。
飯間さん 来年になって「ソーシャルディスタンスなんて誰も使わないのに、なんでこんな言葉載ってるんだろう」となればうれしいのですが、たとえそうなったとしても今回は入れておこうと。
――新聞でも昔の記事を読むと「こんなことやってたなあ」ということがあるので、何十年後かに8版を見て感慨を抱くこともあるかもしれません。
飯間さん 何十年後ならいいけれど、発売後1年で古くなっているかもしれない。コロナ関連語ではそう思いつつ入れた言葉もあります。
――マリトッツォとは違うと。
飯間さん そういうことです。
話し言葉と俗語の境界は
――新語はやはりSNSから採集するのでしょうか。
飯間さん 最近の新語がSNSをはじめとしたデジタル空間から大量に出てきます。それは落とせないということです。
――三国では言葉に〔俗〕(俗語)、〔話〕(話し言葉)のマークをつけていますが、SNSでは書き言葉が話し言葉のようにもなっています。その境目は難しいのではないでしょうか。
飯間さん 会話では俗な意識もなく普通に使うが、文章には使えない言葉があります。典型的なのが「じゃあ」。社会人が目上に対して「じゃあ部長、私はここで失礼します」と言うし、言われた部長も怒らない。ところがメールで「じゃあ部長、これで」というと「メールで『じゃあ』とはなんだ」と怒られる。話し言葉なら違和感がないが書き言葉では違和感がある、しかも俗語ではない。それが「話」です。俗語の俗な成分が弱くなると「話」になるわけではありません。俗語は仲間内で使うもので、当人が「これ俗だなあ」と思いながら使っている。例えば「やばい」。部長に向かって「今回の件は非常にやぼうございます」とは言わない。俗語の意識があるからです。「話」と「俗」ははっきり分かれるのです。
――しゃべり言葉≒俗語、というイメージだったのでこういう視点はありませんでした。
ペットが「死亡」でよいか――類語の区別
――8版では似た言葉の違いを示す「区別」という項目が新設されました。校閲としてはどちらの言葉がいいのか迷ったときに役に立ちそうです。
飯間さん 類語辞典を作るわけではないのでそんなにたくさん項目はないのですが、三百数十の言葉に設けました。
奥川さん 矢印で「○○を見よ」としているものも含めて369ですね。
飯間さん 今回の三国では、文章を書く上で頻繁に問題になるものに限って載せました。例えば、飼っていたペットが「死亡しました」「死去しました」としていいのか。まず「死ぬ」が一番概念が広いと説明します。広く使えるが何か冷たい。「死亡」は「人の死を示す客観的な語」。ですが「ペットなどの死にも使う」とも書いて実態を反映させたつもりです。他にも死去、逝去、他界など死の表現に悩むところ、どう使い分ければいいか書きました。
――新聞では動物園の人気者が死んだりすると、記者が「死亡」と書いてくることがあり、そういう場合「『死亡』は普通人に使うんですが……」と相談します。でも8版の説明の通り「『死ぬ』だと冷たいよね」という話になり、どう書くか工夫が求められます。そういう場合にも参考になりそうです。
飯間さん 別の方面では「階段を上(あ)がる」か「階段を上(のぼ)る」か。「上がる」は前よりも高い場所に移ること、「上る」はそこへ行く途中に重点があります。1階から2階へ行く場合、過程は重要ではないので「上がる」を使います。しかし1階から10階まで階段を使う場合はプロセスが長いから、「上る」も使える。そんなことを書きました。文章を書くときの悩みをかなり解消できるのではないかと自信を持っています。
辞書普及には「アプリ版のアピールを」
――ネット検索で分からないものに答えを出すということも含め、紙の辞書の長所を追求していると思います。ただ紙の印刷物は販売・人員など厳しい状況です。今後の改訂、そして辞書の存続のためにどういう工夫を考えていますか。
飯間さん 個人の意見としては、紙の辞書を決して重視していません。学生たちは紙の辞書は引かない。若い世代に辞書に親しんでもらうためには辞書アプリの使い勝手を良くして、「辞書アプリを入れてね、使えるよ」とアピールするのが先だと思います。かといって紙の辞書が嫌いというわけではありません。今回の三国は見出しにアクセントが入っていますが、直感的に分かるデザインは初めてだろうと満足しています。これを読みやすく、ずれないように印刷するというのも簡単ではないはず。出版物として非常にいいものができたと思いますが、それと辞書普及の方策は別に考えなければなりません。
――私は7版の阪神タイガース仕様を使い続けたいので、8版のアプリを切望します。8版でもタイガース仕様が出るなら、その際は「ミスター」の項目の用例変更を……。
飯間さん 7版の阪神タイガース仕様では大変失礼しました。
奥川さん 読者のおはがきでも多数、指摘を頂きました……。その後カープ版のときは徹底的にそういうのを無くそうとしました。8版では「ミスター」の用例を差し替えています。
――タイガースファンにとっては朗報ですね(?)
=つづく
【まとめ・林弦】