「虎穴に入らずんば」に続くのは「虎子」が「虎児」の2倍となりました。出典の表記は「虎子」ですが、文学作品などでは「虎児」が多く書かれており、これも間違いとはいえません。そもそも日本人はことわざの表記に無頓着な面がありました。

「虎穴に入(い)らずんば」の後に来るのは「虎子を得ず」か「虎児を得ず」かうかがいました。

「虎子」が「虎児」の倍に

「虎穴に入らずんば○○を得ず」――○○は何を入れますか?
虎子 67.9%
虎児 32.1%

 

結果は「虎子」が「虎児」のほぼ2倍となりました。毎日新聞での使用件数が半々ぐらいだったので、これだけ差が付くのはいささか意外でした。

出典では「虎子」だが「虎児」使用も多かった

出典は中国の「後漢書」です。後漢の武将、班超が匈奴の兵を襲うときに言ったせりふです。そこでは「不入虎穴不得虎子」となっているので、「虎子」が元の表記でした。国語辞典やことわざ辞典もほとんど「虎子」のみを掲げるか、「虎児とも書く」などと注記するかです。

しかし確認できた範囲では、現代国語例解辞典(小学館)、集英社国語辞典、三省堂現代新国語辞典、学研現代標準国語辞典が「虎児」を「虎子とも」などの注釈抜きで載せています。

あるインターネットの記事には「原文では『虎子』ですが、現在の日本語では、『虎児』の形で使うのが一般的です」とありました。疑問を抱きつつ電子図書館「青空文庫」で検索すると、確かに「虎児」が明らかに優勢です。「虎子」はほとんど出てきません。例えば吉川英治「三国志」では「虎児」です。

また、太平洋戦争開戦80年にちなんでいえば、昭和天皇の側近、木戸幸一が1941年10月20日の日記に、昭和天皇が「虎穴に入らずんば虎児を得ずと云(い)ふことだね」と言ったと記しています。

「岩波ことわざ辞典」など多くの著書があることわざの研究家、時田昌瑞さんの確認した用例などによると、江戸時代寛政期のことわざ集に「虎児」が見られるものの、明治ごろまではほとんど「虎子」でした。それが昭和になると「虎児」に取って代わられているようです。

ことわざの表記に無頓着だった?

元は「虎子」だったことが明らかなのに、日本の文章で「虎児」がなぜ書かれてきたのでしょう。一つの可能性としては、そもそも日本人はことわざや慣用句の表記についてあまり厳密に考えてこなかったのではないかと思います。

例えば「高見の見物」は毎日新聞用語集では誤りとされていますが、「青空文庫」で検索すると「高みの見物」よりも多く、名だたる作家によって使われていることがうかがえます。理屈としては「み」は場所を示す接頭語であり「高いところ」を示す表記として「高見」は不適切ということは、少し考えれば理解できます。それなのに「高見の見物」という書き方がかなりされているのです。また、「袖すり合うも多生の縁」も「振り合う」「触れ合う」「他生」の異表記があります(ただし「多少」は間違いとされます)。日本人はことわざの表記に関して無頓着だったという例は少なくないようですね。

時田さんによると「ことわざが定形を有するとする一部の考えに大なる疑問があります。現代の辞典に載る表記は辞典のために整えられた鑑(かがみ)のようなものだと考えています」ということです。

「虎穴に入らずんば」に話を戻すと、このことわざの使用例が意外に少ないことも表記が割れる一因かもしれません。実は、毎日新聞のデータベースで過去約30年分の記事を検索してみても、「虎穴に入らずんば」でヒットする件数は32件にすぎません(東京本社版、地域面除く)。有名なことわざと感じる割に記事での使用は少ないのです。

ただ、昭和天皇の発言にもあるように、口頭の言い回しとしてはそれなりに用いられていたのではないでしょうか。とすると「虎児」か「虎子」かという表記の問題は二の次になったのかもしれません。

「虎子=おまる」の意味があった

だとしても、中国の原文が「虎子」なのに「虎児」の表記がなぜ日本の文学者などによって多く書かれてきたのか、という答えにはあまりなっていません。

ところで「虎子」には「おまる」の意味があることをご存じでしょうか。正確には「御虎子」。広辞苑の編者、新村出の「語源をさぐる」(旺文社文庫)に「虎の子(虎子=こし)で、これはオマル、すなわち老人、子供の使うものの名称となっている」とあります。どれだけその使い方が一般的だったかわかりませんが、「おまる」の意味があることが嫌われ、その意のない「虎児」が好まれたのかもしれない――というのはあくまでも専門的な素養のない出題者の仮説です。

今は「虎子=おまる」のイメージが失われたからかどうかわかりませんが、「虎子」がより好まれていることが、アンケートからうかがえます。ですが、いうまでもなく「虎児」も間違いではありません。例えばテストで「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と書いてきた答案に対し、「虎子」しか載せていない辞書を見ただけで×を付けてはいけません。もしそんなことをする先生がいれば、例えば集英社国語辞典にはこう書いてあるが間違いなのか、という反撃を覚悟しなければならないでしょう。

(2021年12月17日)

質問に際して

2022年のえとにちなみ、このことわざを記事や年賀状などで取り上げる人も多いのではないでしょうか。よく知られていますが念のため意味を記すと、危険を冒さずに大成功を収めることができないということです。▲中国の「後漢書」に由来する言葉で、そこでは「虎子」とされています。トラの子が大変珍しいことから、貴重な物のたとえとして使うようになりました。スポーツでも「虎の子の1点を守り抜いた」などと使いますね。▲辞書では大体が出典を尊重してか「虎子」で載せています。しかし、いくつかの辞書は「虎児とも書く」と付記し、さらに少数ですが「虎児」のみを掲げる辞書もあります。毎日新聞の使用件数も二分されています。みなさんはどう書きますか。なお、虎子は「こし」とも「こじ」とも読みますが、今回は特に問題にしません。

(2021年11月29日)

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