辞書づくりは小惑星探査機「はやぶさ」に似たところがあると広辞苑の編集者・平木靖成さんは言います。「なんでお金かけるんだ、そんな研究無駄だとかいう考え方もあるけれども、なんか面白いな、ロマンがあるなと思って、基礎的な研究につながっていく」

 岩波書店辞典編集部の平木靖成さん、奈良林愛さんにお話を伺った前回からの続きです。

 

後編では、実際の作業や残された課題、広辞苑の将来と辞書づくりへの思いなどを聞きました。

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「いためる」と「やく」 違い明確に

――第7版で先送りした課題は何ですか。

平木さん 今回の改訂での大きい柱の一つとして、類義語のチェックをしてもらいました。例えば「いためる」は第6版の「食品を少量の油を使って加熱・調理する」から第7版で「熱した調理器具の上に少量の油をひいて、食材同士をぶつけるように動かしながら加熱・調理する」と、「やく」との違いを明確にしました。

「いためる」と「やく」。第7版(左)と第6版=赤線は引用者

 

うまく書いてもらったなと思うのですが、基礎的な動詞だけで時間切れでした。名詞の「発生・生起・派生」「権威・権力」など、特に抽象名詞の書き分けには全然手がまわらなかったので継続してやりたいと。

「継続課題は、たくさんあります」

◆あと古典用例のチェック。もともと広辞苑に載っていた古典用例の底本があいまいだったので、今回は「新日本古典文学大系」(岩波書店)にそろえようとしたんです。そうすると「見出し語に立っている言葉なのに、「新古典」の本文にはないじゃないか」という言葉が出てきたりもしたんですが、それも時間切れで、奈良・平安時代で終わっちゃったんです。とにかく源氏物語が山ほどある。なので鎌倉時代以降は継続課題です。

第6版(右)にあった「ひるつほど」が第7版でなくなった=同

 

他には付録に漢字小字典がありますが、今回は常用漢字、人名用漢字の記号を付け替える程度で手いっぱいでした。コンテンツとして中身のブラッシュアップをやりたいです。他にも細かいところはたくさんあります。

付録の漢字小字典

 

――先送りの判断で難しいことはありますか。

◆できるだけ先送りはしないで入れ込みたいという思いでやりますが、これをやり始めたら2年かかるな、なんていうのは先送りだと判断せざるをえません。

改訂作業の実際は

――辞典編集者が使用するツールについて教えてください。

◆まず、印刷会社と岩波書店との間でだけ回線が通じていて、最新の改訂校正状況がリアルタイムで見られるデータベースがあります。前回の第6版から使えるようになりました。

たとえばDNAが本項目だったのをデオキシリボ核酸を本項目に変更するとします。すると、関連する他の項目でそれらの言葉が出てきていたら、全部ひっくり返さないといけなくなります。昔はそういう変更項目や新加項目のリストをみんなで共有して、毎日のように更新していましたが、今はデータベースで全文検索して直せるようになりました。

でも、こうやって対応できるのは単語レベルの話までで、書式や文体といったところは人力になります。私は一応、スタッフの入れた赤字を一通り見たわけですけども、そのとき主にやっていたのは、人の目で見て直す以外にない文体の統一などです。

――部員の方が気をつけていることはありますか。

奈良林さん 定例の部会で平木などから注意すべき事項の話があります。例えば、「市町村合併に注意しましょう」という話。○○市と□□市は合併したから、旧版では「○○市の東部に何々がある」と書かれていても、今の新しい地図で確認すると、大きくなった○○市の東部にあるとは限らない。経験の浅い人としては「ほおー」というわけで、気を引き締めて作業の際の参考にします。

――こういうことが起こりうるから対応しなければいけないというのは校閲記者にも通じる話です。

 

入れるか入れないか「最後は主観」

――用例の採集に関して機械的な抽出はしますか。

◆携帯電話で引ける「モバイル版広辞苑」で、検索されたけれどもヒットしなかった言葉は、項目候補の材料に使いましたが、項目に入れる入れないは最後は主観で判断して決めるので、機械的・数量的にやっても意味がないと考えています。

あと今回活用した「神戸大学新聞記事文庫」は戦前とかの古い用例を拾うのに使いました。どうしても辞典に入る用例は文学作品に偏りがちになるのですが、近代の古い漢語などではそういう新聞記事のデータが役立ちました。

神戸大学附属図書館の新聞記事文庫

 

「たしか」は実現確率何%か

――読者からの問い合わせにも対応していらっしゃるそうですが、言葉に関する質問には答えづらいものもあるのでは。

◇時々あるんですけど、可能性を表す形容詞などの語釈にある「たしか」だっていうのは実現確率何%なのかという問い合わせは困ります。100なのか90なのかと。例えば企画会議で「この本は『たしか』に売れます」と言う時の気持ちって、自分の置かれた立場にもよりますね。

 ――似た例で、毎日新聞では「数日」とかの「数」(すう)は決めにくいけれども決めています。

◆ああ、それも来ますよ。「『数』っていうのはいくつですか」って。

――「四、五」としています。でも現在、意識として減ってきているじゃないですか。どう感じるか多様化しているので、一応決めておかないとという面があります。以前は「五、六」でした。

◇結構具体的に考えているんですね。

「近年」って、いつごろ?

◇逆に質問なんですけど、「近年」っていう言葉だったらどれくらいのことを指しますか? なんとなく自分が生まれた後のことを近年と思いたいところがあって。それでいうと60代のベテランと文面のことで相談したときに、ずれが生じてしまう。

◆人間の感覚としてそうかもしれない。年を取ると早く感じるし。

――「近年」は毎日新聞では決めていませんが、人によって受け取り方が違う言葉は結構ありますよね。

“本当の気持ち” 分からない言葉

◆国語に関する世論調査にもあった「割愛」って言葉は、もともとは「おしいものだけどすぱっときる」ことですが、実際にどう思って使っているかは、言葉の表面だけでは分からないんですよね。「やむなく」とかいう副詞がついていれば分かりますけど、「これは割愛します」だけでは本当の気持ちなんて分からない。

――私たちも読んでいて、どういうつもりで書いたか分からないときがあります。「雨模様」は降る降らないで大違いなので確認しますが、「憮然(ぶぜん)」なんかは「これどっちだろうなあ」って悩みます。

 

中型辞典は難しい時代

――広辞苑の将来についてお聞かせください。

◆中型辞典の改訂は難しい時代になっています。次の第8版も出せるかどうかまだ決まっていません。まず次の世代の編集者・校正者が少ない。それから、紙媒体ということでは製本会社が成り立ちにくくなっています。印刷会社はデータ管理とかでまだ成り立つ面があるようですけど、製本会社は紙の本がなければ仕事になりませんから。広辞苑のようなこの厚さを成り立たせるだけの技術を維持した業界が存続してくれるのか先行きは分からない。

 

改訂、もう「当たり前」ではない

――当たり前に改訂されていくものだと考えていました。

◆もし冊子版をやめるなら電子版だけでどうやって費用を回収していくかを考えなければならない。でも、電子辞書業界も今はかつての勢いはありません。

これまでは、広辞苑なら疑問もなく何年かたったら改訂版を出すという大前提でいたんですが、もう違ってきているなという感じは受けます。その中で採算の話ももちろん大きいんですけど一番の危機はやっぱり人です。編集・校正・製作全部後継者がいなくなってきている。

――世間的には困るのではないでしょうか。広辞苑が改訂を続けていかない状態は。

◆本当に困るんですかね。

――困るというか、嫌です。

「役には立たない。でも文化の底力に」

 ◆嫌だと言っていただけるのはありがたいんですけど、広辞苑にせよほかの国語辞典にせよ、例えば「いためる」っていう言葉の意味がこんなにうまく書けたよってなっても、誰の役に立つのかっていうとほとんど役に立っていないと思うんですよね。

でもこういうのが面白いっていう人が世の中にいるから、ニュースになったりみんな「へーっ」て思ったりしてくれる。そう考えると辞典づくりって、100メートル走のタイムをどれだけ縮められるのかに人間は興味を持ってしまうっていうのと、どこか似た作業だと思います。誰にも役に立たないけど。

――劇的に役に立つわけではないかもしれないけど、それでも必要です。

◆文化の底力っていうか基礎研究という面ではあると思うんですよ。なんで小惑星探査機「はやぶさ」なんかにお金かけるんだ、そんな研究無駄だとかいう考え方もあるけれども、なんか面白いな、ロマンがあるなと思って、基礎的な研究につながっていく。「いためる」を、ぜひうまく書きたいっていうのも、そういう思いかもしれません。

校閲は「これまでの全人生」懸けて

――そういえば、校閲について、平木さんが以前、雑誌の座談会で「自分のこれまで生きてきた全人生、全知識を総動員して見ていくしかない」と語っていて、どうして校閲の心がこんなにわかるのだろうと驚いたことがありました。

◇全人生……。

◆だって校正もしますから、校閲と共通する面はありますよね。それまで学んだこと、経験したこと……それらのかすかな記憶や、それにからんで思う「あれ?」という疑問を、どう引っ張ってこられるかですよ。だから、広辞苑なら5回か6回校正をとるんですけど、同じところは同じ人に見てもらわないようにしているんです。人によって絶対ひっかかる(誤りに気づく)ところが違うはずなんです。

――まさにその通りです。新聞の校閲も、時間は限られていますが、なんとか多くの目を通そうとしています。辞書の編集者の方々が校正も含め、いかに広く目を配って大切に辞書づくりをしているかを感じることができました。今日はありがとうございました。

(おわり)

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