「新聞で『留飲を下げる』と書いてあったが、『溜飲』の間違いではないのか」。読者から、しばしばいただく問い合わせです。

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留飲は「代用漢字」

辞書を引いてみると、ほとんどが「溜飲」で項目を立てており、「溜飲・留飲」と併記しているものが二、三あるくらいでした。明鏡国語辞典は「溜飲」で項目を立てた上で、語釈の最後に「新聞では『留飲』で代用する」と書いています。


明鏡第2版

読者の指摘のように本来は「溜飲」と書くのですが、新聞では「溜」の字が常用漢字に入っていないため、明鏡国語辞典が書いているように「留飲」と表記することにしているのです。このように本来の漢字の代わりに別の漢字を使って表記するものを「代用漢字」と言います。

本来使われていた字を、新聞が別の字で書くようになったきっかけは、1946年に国語審議会(現在の文化審議会国語分科会の前身)が答申した「当用漢字表」が内閣によって告示されたことです。当用漢字表には1850字が採用されたのですが、そのまえがきには「この表は、法令・公用文書・新聞・雑誌および一般社会で、使用する漢字の範囲を示したものである」と明記されていました。これを受けて新聞社や通信社では、この表に入らなかった漢字を使った言葉をどう表記していくべきか、さまざまな議論がなされたようです。

「編集」「連合」「賛辞」「離反」なども

現在では違和感なく使われている言葉でも、当用漢字表の告示を受けて代用漢字による表記を採用したものは少なくありません。例えば、新聞社の中心といえる「編集局」の「編集」もその一つです。本来の表記は「編輯」だったのですが、「輯」の字は当用漢字表に採用されませんでした。そのため「輯」の字の「あつめる。多くのものを一つに集める」と同じ意味で、音も同じ「集」の字をあてることにしたのです。今では「編集」の表記に違和感を持つ人はほとんどいないと思いますが、辞書を見ると「編集・編輯」と併記して項目を立てているものが多くあります。


広辞苑第7版

ただ、当用漢字表に採用されなかった字を使っていた漢語の表記をどうするかは、その後も議論があったようで、当用漢字表の告示から10年後の1956年に、国語審議会が「同音の漢字による書きかえ」という指針を公表しています。この時に300以上の書き換えが示されたのですが、その多くは今も毎日新聞用語集や新聞協会の用語集で採用されています。この時に示された指針には、「編輯」→「編集」の他に、「聯合」→「連合」「讃辞」→「賛辞」「離叛」→「離反」など、現在では定着している代用漢字を使った表記が多くあります。

日常的に目にする言葉で代用漢字を使ったものの例(当用漢字表の告示や「同音の漢字による書きかえ」で表記を統一したものを含む)
意向  (←意嚮) 壊滅  (←潰滅)
慰謝料  (←慰藉料) 広大  (←宏大)
衣装  (←衣裳) 根底  (←根柢)
火炎  (←火焰) 散布  (←撒布)
強固  (←鞏固) 集落  (←聚落)
区画  (←区劃) 尋問  (←訊問)
画期的  (←劃期的) 先端  (←尖端)
回転  (←廻転) 台風  (←颱風)
格闘  (←挌闘) 嘆願  (←歎願)
決壊  (←決潰) 繁殖  (←蕃殖)

「留飲」への違和感はどこから?

代用漢字を使っていても、「編集」「連合」といった定着した表記と、「留飲」のように違和感を持たれる表記の差は、どこにあるのでしょうか。それを探るために国立国語研究所が構築しているコーパス(書き言葉や話し言葉の用例を大量に収集し整理したもの)を検索してみました。すると、「編集」と「編輯」の用例は5752件対43件、「連合」と「聯合」は4756件対68件と、圧倒的に代用漢字を使った表記が定着しており、もはや代用漢字というのがはばかられるほどです。

「集」と「輯」は音が同じなだけではなく、「あつめる」という同じ意味があることは先ほど書きましたが、「連合」の「連」と「聯」も音が同じだけではなく、共に「つらなる」という意味があります。このように表記が定着している代用漢字は、同じ音だけでなく同じ意味を持つ漢字を採用したことが違和感なく受け入れられた理由なのかもしれません。

一方、読者から問い合わせをいただく「留飲」ですが、コーパスで検索したところ「留飲」の用例は2件しかありませんでした。対して「溜飲」は43件の用例があり、新聞と違って一般では「溜飲」が使われることが圧倒的でした。そして、面白いことに合わせて45件ある用例のすべてが「胸のつかえが取れて、すっとする。不満の気持ちがなおる」(三省堂国語辞典)様子を表す「留飲(溜飲)を下げる」「留飲(溜飲)が下がる」という慣用句でした。

「溜飲・留飲」の意味は「飲食物が胃にとどこおって、酸性の胃液がのどに上がってくること」(大辞泉)ですが、その意味での用例は見当たりませんでした。毎日新聞の記事データベースで検索しても結果は同じで、合わせて350件ほどある用例のすべてが慣用句としての用例でした。現在では「留飲(溜飲)」は日常的に使われる言葉ではなく、もっぱら慣用句として使われる言葉だといえるでしょう。


大辞泉iOS版

また「留」と「溜」は、音は同じですが「留」が「とどまる」という意味なのに対して「溜」は「たまる、ためる」という意味で、漢字の持つ意味が少し異なっています。加えて、「溜」は当用漢字表には採用されず、常用漢字表にも入っていないのですが、「溜まる、溜める」といった表記を目にする機会はたびたびあり、日常的に使われる漢字と言えると思います。

これらのことから考えると、
①慣用句として使われるため、本来の表記である「溜飲」を目にする機会が多い
②代用漢字として使われる「留」と本来の漢字の「溜」の意味が少し異なっている
③本来の字である「溜」を目にする機会が少なくない
――といった理由で、「留飲」は違和感を持たれがちなのかもしれません。

新聞を制作する上では、表記の統一性や読みやすさという観点から常用漢字表やそれに基づいて定められている用語集に即した表記にする必要があります。しかし、「留飲」に関する問い合わせは、私たちが校閲記者として普段の仕事で当然のように使っている表記が、時には読者に違和感を持たれる場合もあるということについて改めて考えさせます。これからも、どのような文章や表記が適切で分かりやすいのか、「最初の読者」といわれる校閲記者として常に吟味しながら仕事をしていきたいと思います。

【新野信】

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