図書館で借りた、19世紀ロシアを代表する文豪の一人、イワン・ツルゲーネフの「はつ恋」。ロシア文学「金の時代」の代表作です。


「はつ恋」(新潮文庫)裏表紙カバー

何気なく目に入った裏表紙の内容紹介には「16歳のウラジミールは……」とあり、チェコ系か何かの人の話だっただろうか、などとぼんやり考えたところで、はっとして中身をめくりました。


「はつ恋」(新潮文庫)本文

本文の表記は「ヴラジーミル」。裏表紙と合っていません。出版社のサイトを見ても本の紹介文は裏表紙と同じ「ウラジミール」でした。

「ウ」と「ヴ」の違いは日本語で表記しがたい音をどう文字にするかの問題で悩ましいところですが、本文と裏表紙が合っていないのは気になります。しかしより気になるのが長音記号「ー」の位置です。

英語で綴ればVladimirで、表記に長音の要素があるわけではなく、「ウラジミル」と書かれることもありますが、ロシアではアクセントが「ジ」にあるので、長音記号を入れるのであれば「ウラジーミル」となります。チェコなどのVladimirさんはウラジミ-ルと発音すると語学書で読んだことがあり、冒頭のような疑問が一瞬頭をかすめたのです。訳者は現地ロシアでの発音にのっとり「ヴラジーミル」としたのでしょう。

ただ、現地の発音を重視せず、英語での発音を採用するならウラジミールだと耳にしたことがあります。さらに「ウ」と「ヴ」については毎日新聞にも、日本語の発音になじまない「ヴ」は発音の近い別の表記に書き換える規定があります。つまり内容説明は一般的な発音と表記を採用し、中身の作品だけは原文のままとしたのでしょうか。


毎日新聞用語集より

いずれにしても、特に意識せずVladimirはウラジミールだと思っている人が多いようです。作家の津村記久子さんも、毎日新聞に掲載されたロシアの人名についての本の書評で「当たり前のように発音していた『ウラジミール』が、本当は『ウラジーミル』であるという事実も衝撃的」と書いていました。


毎日新聞用語集より

もちろんロシアに住んでいるチェコ系の人や、その他何らかの理由で「ロシアのウラジミール」を名乗る人もいるでしょうから一概には言えませんが、毎日新聞は外国の地名、人名については慣用の定着しているものを除き、現地の発音に近い表記を原則としているので、ロシアの人名で「ウラジミール」が出てきた場合は確認すべきだと思っています。

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姓の女性形・男性形

ロシアの人名についてはもう一つ気をつけなければならないことがあります。

以前女子テニスの原稿で、ロシアのスベトラーナ・クズネツォワ選手の名前が「クズネツォフ」になっていたことがありました。有名な選手なのですぐにクズネツォワの誤りだと直せましたが、たとえ無名な選手であったとしてもクズネツォフはありえないと気づくことは可能です。

ロシアでは女性の姓は女性形に変化します。フョードル・ドストエフスキーの妻はアンナ・ドストエフスカヤ。ウラジーミル(!)・プーチン大統領の妻はリュドミーラ・プーチナさんでした(現在は離婚)し、ドミトリー・メドベージェフ首相の姓は男性形で、女性形ならフィギュアスケートのエフゲニア・メドベージェワ選手の姓になります。

基本的に男性の姓は子音で終わり、女性の名字はaがつくことが多いのですが、もちろんこれも「ほとんど」というただし書きは付きます。チェルネンコ、プルシェンコなど「エンコ」がつく姓は変化しないそうです。

世界には多くの国、地域があり、多様な民族が暮らし、それぞれに独自の名前を持っています。故郷を離れても民族固有の名前を大事にしている人もいれば、結婚などで新たなルールによる名前を持つようになった人もいるでしょう。日本のような小さな国でもそんな人はたくさんいて、まして広いロシアにはさまざまなルーツを持つ人がいて複雑です。歴史的な事情も絡み、名前に対して複雑な事情や思い入れを抱える人も多いのではないでしょうか。

世界は知れば知るほど広く、そんな知識が増えれば増えるほど校閲記者として背筋が伸びる思いがします。現地の常識を踏まえた記事であるために、人々の持つ思いをきちんとくむ新聞であるために、わたしたちも力を尽くしたい。名前を知ることは、相互理解の最初の一歩なのだから。

【水上由布】

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